なむ式

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アクティブラーニングとは何か

「アクティブラーニング」という言葉を聞いてあなたはどう思うか?

 

 

この本は日本の教育史を戦前までさかのぼり、日本の教育における「アクティブラーニング」の歴史を紐解いている。

驚くべきことに、「アクティブラーニング」に近い教育観や指導案というのは戦前から存在しており、決して最近出てきた新しい考えなどではないのである。歴史は、詰込み型教育と生徒主体の教育との間を振り子のように行ったり来たり、方針を変えては批判が噴出しまた方針を変える、を繰り返してきたというのだ。

この本は、そういった歴史を反省することを通して、現在の無批判な「アクティブ」「主体性」への礼賛に疑問を投げかけている。

現在の教育改革に関して挙げられている主な問題点は

  • ちゃんと運用できるか(特に新大学入試など)
  • 学力格差を広げる恐れ
  • 集団の扇動に利用される恐れ(戦時中やザ・ウェーブの例)
  • 結局スローガンの上塗りで終わるのでは?(主体性を身につけさせるなんて口で言うほど簡単ではない)

僕が注目したいのは4つ目のポイント。結局この改革もお題目を掲げただけ、ただの理想の押し付けに終わるのではないか、ということだ。

というかそもそも「主体性」って何なん?

 

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http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2019/02/08/1384661_005.pdf

 

これほど情報量の少ないスライドもあるまい。

「深い学び」とかは、本当に何も言っていないに等しい。どんな学びなら「深い」のか、どんな学びは「浅い」のか。

そして「主体的な学び」とは何なのか。逆に受動的な学びとは何か。今までの一方向的な集団授業が受動的な学びなのか。いや、違う。たとえ非効率な集団授業であれ、やる気のあるやつは「主体的」に学んでいるはずだ。「主体的」とは授業の形態ではなく個人のスタンスの話である。個人のスタンスの如何を教師に要請するのか。「主体的にがんばろうね」って言ったらその通りになるなんてことはあり得ない。どうやって「主体的」にさせるつもりなのか。

そして、「対話的」という言葉が手段(授業の形態)を指すのに対し、「主体的」「深い学び」はクオリティを指す言葉であるのというのも違和感がある。対話主体の授業をやりましょうという方針なら従いようもあるが、クオリティの要件というのは、あくまで理想の学習者像であって、「かくあれ」と言えばそうなるような簡単な話ではない。たとえば、「自学自習を1日3時間やる生徒」は実現可能な標語となるが、「頭がいい生徒」なんて標語は意味がないだろう。それと同じである。対話形式にすれば主体性と深さもついてくるということなのであろうか。そう考えているのならば最初からそう書けばよい。

生徒の主体性を求める教育が戦前から指向されていたことを鑑みるに、生徒の主体性というのは、教育者ならば誰もが見る夢なのではないか。決して現代の要請によって生まれてきた新しい概念ではない。生徒の主体性とは、教育者なら誰しも欲するものであり、とても抱きやすい、心地の良い理想だ。そして、それはきっと、少なくとも公教育では実現できないものだろう。

公教育は、生徒に身につけさせたい内容を画一的に決め、カリキュラムとして全国の学校に与える。この構造上、すべての生徒の主体性を引き出すことなど無理に等しい。すべての生徒が同じ内容にやる気満々で取り組めるとは考えづらい(逆にみんなやる気満々だったらこわくない?)。生徒が主体性を発揮する対象は、各自の性格や経験から現れる各自の選好に応じて異なるのが自然である。主体性を義務教育に要請するのはお門違いだ。

結局、棲み分けの問題である。義務教育は最低限市民に必要な性質を授けるためにやる気の有る無しに関わらずすべての生徒に課す、それ以降の教育段階においては各自のテーマに分かれ主体的に取り組めばよい、などのように。この棲み分けを明確にせず、いろんな方面からいろんな理想をごちゃごちゃに詰めるから、結局何もなすことができないし、生徒も教師も疲弊するのだ。

今行われようとしている改革は、大学入試改革を起点としたものとなっている。みな大学入試を目指して勉強するから大学入試を変えないと教育が変わらないという論理だろうが、これこそ義務教育とそれ以降の教育/学びとの混同である。大学では各自学びたい事柄を選んでそれに向けて主体性を発揮するのが健全な形であろうが、このごった煮の改革では、生徒は大学に行く本当の目的を欠いたまま見かけの主体性を取り繕うようになってしまうのではないか。昔ながらの受験競争の方がましだった、なんてことになるのではないかと僕は思っている。

 

 

結局、アクティブラーニングとは何なのか。

言葉の意味は単純で、「自分がやりたくてやっている学習」のはずである。

しかし、学習指導要領を読むと、それを超えた理想が託された言葉に思えてくる。

「創造性」「個性」「夢」などもそうだが、これらの言葉は大人から子供への理想の押し付けではないか。ないものねだりではないか。自分らにないものを子供に求めているだけではないか。

 

この国には、一貫した理念と科学的な姿勢が足りていない。

一貫した理念がないから、教育の方針がころころ変わる。いつまで経っても欧米の猿真似ばかり。結局この国はどんな市民を育てたいのか?その確固たる思想がない。

そして、科学的な姿勢がないから、現実の条件や実現可能性を考慮しないままスローガンだけ打ち出され、結果の分析や反省もしない。どの教育改革もただの精神論で終わっていて、戦前から進歩していない。

 

理想を語るのは簡単だし、その理想を人に期待するのはもっと簡単だ。考え直すべきは、その理想が当事者一人ひとりにとっても納得できるものであるのかという哲学と、その理想を実現するための現実的な方法論である。これはきっと思うより難しい問題であり、そこから逃げる限り教育の歴史は同じ場所に留まり続けるだろう。

子供に勉強させる前に、大人が学ばなければならない。

 

犬は不自由を嘆かない―行列に並ぶ犬

犬は不自由を嘆かない。

犬を散歩させていた時にふと思ったことだ。

主人の都合で家に閉じ込められ、異性との交流は遮断され、与えられるのは主人との交流と最低限のメシと住環境と30分の散歩のみ。

なんと不自由な存在だろうか、と暗澹たる気持ちになることがあるが、本人はどこ吹く風である。

犬は不自由を嘆かないのである。

では、犬は不平不満も言わないのか?

いや、不平不満くらいは訴える。主人の不在やルーティンからの逸脱(散歩へ行けない、ご飯がない)を犬は嘆く。

ならばそれは「不自由」を嘆くことと何が違うのか。人間との違いは何だろうか。

思うに、犬は普段の環境(=世界)と現状とのギャップに関してのみ嘆くのである。一方で、人間は理想とのギャップを嘆き、不自由を訴えるものだ。しかし、犬には自分の経験したことのない理想の世界を描くことはできないのだと思われる。

ならなぜ人間にはそれができるのか。

犬と人間の大きな違い、それは言葉を持つか持たないかである。言葉があるから、人間は自分の経験とは離れて、理想を思い描くことが可能なのであろう。

ところで言葉の本質は何だ。特に、動物語(動物の意思疎通の手段)との決定的な違いは何だ。

思うに、それは、状況依存性の有無だろう。つまり、限定的・一時的な状況から取り出して使えるという特徴を持つのが言葉という情報伝達手段(=メディア)だ。

ただの意思疎通手段は、その構造上、情報の受け手ともらい手の置かれている状況に依存するはずである。しかし、それを言葉として、特にそれを文字として表現することで、状況依存した情報伝達の手段は、その文脈を離れ、経験したことのない世界の構成や疑似体験にさえも使えるメディアとなるわけである。

つまり、言葉は、自分の経験外の世界を疑似体験できるメディアであるという重要な特性を持っている。

言葉を持つから、人は他人との比較ができる。他人の生きる世界の疑似体験を通じて。

言葉を持つから、人は想像できる。多数の他者の世界の疑似体験およびまだ見ぬ世界を言葉によって構成することによって。

だから人は不自由を嘆く。犬は不自由を嘆かない。

そして言葉は想像力の源である。本を読まない人間は、それだけ人生において経験する世界のバラエティに乏しいと言える。世界経験に乏しいということはより動物生に近いという言い方もできてしまうのではないか。より人間としての生を充足したいなら、本を読むことは重要に思える。

もちろん、世界を疑似体験するメディアは本だけとは限らない。

例えば、人。人との交流もそれだけ自分の世界のバラエティを広げる経験だろう。ただし、それは、状況依存性から脱却したコミュニケーションをとれる場合のみだと僕は思う。つまり、定型化したコミュニケーションだけ交わしているだけでは、どうやっても相手の世界の疑似体験などできるはずもないのである(「やばい」、「かわいい」、「それな」で世界経験が豊かになるだろうか)。

そして映画やゲームなどの映像メディア。これらは基本的に文字よりも視覚や聴覚を媒介として仮想世界の疑似体験をするものである。そしてこれらは、見るだけ、聞くだけでいいぶん、本より楽であり、没入しやすい。

しかし、本というのは死んだ人間の生きた世界を疑似体験できる唯一のメディアであり、人の思考を追体験できる唯一のメディアである。特に、思考とは、限定的状況から取り出した言葉というものを操作し、つなぎ合わせ、あらたな概念や世界を構成する行為であり、人間性の本質である。だから、本を読むのはとても大事なことだと思っている。

小説と映画の違いに着目していうと、おそらく世界の疑似体験という目的に照らせばどちらでも違いはない。しかし、言葉を操ることが人間性の根幹であるという先ほどの考察を踏まえると、小説の方がより人間の本質的特徴を活かしたメディアであると言える。そしてその特徴に紐づく能力、つまり言葉によって仮想世界を構成する能力(≒想像力)を養えるのがどちらかといえば、それは小説の方になるのだろう。

一方、本なんて読んでも、不満や悩みの種にしかならないという考え方もありうる。なぜなら、言葉なんてなければ不自由を感じないのだから。

当然、これは善し悪しの問題ではない。個人の自由である。しかし、本を読むことを知らなければ、有する世界のバラエティが乏しくなってしまうことは間違いない。

例えば、流行に流されるという行為。今ならタピオカ屋に大行列ができている。タピオカなんて前から日本にあったはずだが、突然人が殺到している。これはおかしい。つまり、非合理的だ。

思うに、この原因こそ、有する世界のバラエティの乏しさである。マスメディアという、社会における最大公約数たるメディアの伝える世界経験が自分の世界バラエティの中で支配的になっているからこそ、前までガラガラだった店にわざわざ何十分も並ぶという非合理的選択をしてしまう。

ちなみに最近Twitterに「タピオカ屋に並ぶのは友達とわいわいするのが楽しいんだよ、陰キャ乙」みたいな投稿があった気がするけど、それは、マスメディアの世界経験に支配された者同士が定型的コミュニケーションを通した相互承認によって快楽を得ているだけではないか、と穿った見方もできる。このタイプの生き方は、社会のメインストリームに乗っていることによる自己肯定感も助けになって、なかなか快適なものであろうが、それだけである。

思うに、このタイプの振る舞いをしている人間も、それぞれ固有の世界を持っているはずで、逆にこのタイプの振る舞いから完全に自由な人間というのもなかなかいまい。自分も多数派に流されてしまうことはないわけではない。しかし、なんでも流行に乗る人々を、僕は理解できないのである。

タピオカくらいでくどくど言うなと思われるかもしれない。だが、これこそが大衆の愚かしさの象徴であり、ゆくゆくは民主主義を殺す化け物であると、そう言えてしまうかもしれない。

だから、僕はあえて彼らをこう呼ぼう。

行列に並ぶ犬、と。

 

 

就活終わりました

悩みに悩んだ就活でしたが、終わりました。

就活やる前は自己分析とかの就活文化を内心馬鹿にしていたけど、一つ人生の転機になったと思っています。僕にとって今回の就活は自分の責任で進路を決める初めての経験であり、そのために自分は何をしたいのかを本気で考えたのもきっと初めてだったと思うし、今まで大して考えずに進路を選んできた分、苦しい時間でもありました。きっと多くの大学生にとってそうなのではないかと思っています。

新卒の就活という日本文化はネットでテンプレ的に批判される対象になっているけど、今の日本において若者が自分の人生を考え直す唯一の機会であると思うし、そんなに悪いことばかりではないかなと。未経験の分野の仕事に飛び込める最後のチャンスだと思いますしね。

僕はそんな機会を無駄にしまいと、やってきました。ここで世間体やら人気やらに流されて就職先を決めては、大学受験のときと何も変わらない。某メーカーを落とされてからは、むしろ有名企業を避けるくらいのスタンスで企業選びをし、どこに入るかではなく何をしたいかを軸に考えてきました。

 

 

そんな僕がどこに就職するか、具体的にはここで話しませんが、大きなテーマを一つ言うと「僕のようなつまらない受験エリートを再生産しないこと」です。

 

僕は今までこのブログでも少し教育への不満を綴ってきたし、

 

nummeta.hatenablog.com

 

自分の生き方についての反省もしてきました。

nummeta.hatenablog.com

 

自分の人生については、もちろん自分の能力や姿勢のせいというのも大きいと思いますが、今の中高の教育の問題も大きいと思っています。中高の教育は、内容が大学受験に規定されてしまっていること、官僚と技術者を生み出すための教育制度が惰性で受け継がれてしまっていることなど多くの問題点を抱えており、その結果、僕のように勉強で成果を出しても目的を持たない人間や、夢があっても勉強ができないためにあきらめてしまう人間を生み出していると思っています。そして偏差値だけで大学を選ぶ現状では、多くの学生にとって自分の人生を本気で考える初めてのタイミングが就活になってしまい、大学時代もったいない過ごし方をしてしまうことも多いのではないかと思います。もっと大きい話をすれば、資本主義の行きつく先に幸せはないと悟ってしまった我々の世代にとって、旧時代の消費による快楽に代わる生きがいを見つけることは各自にとって深刻な問題になっていると思います。結局、旧来の教育制度は、目的を失った新時代を生きる我々の世代を十分に育てることができていないのです。

そんな中で僕は、中高生の視野を広げ、錆び切った教育制度からの解放を目指し、ゆくゆくは新時代を切り開く人たちをつくっていきたいと考えています。思い切って言えば、自分のコンプレックスをつくった遠因たる教育制度をぶっ壊したいのです。手段の目的化、同じ内容を延々と繰り返すだけで勉強の仕方は生徒任せ、ペーパーテストだけの評価、人格教育や進路相談など学科教育以外の方法論の欠如、など問題だらけの教育にゲームチェンジを起こしたいと、そんな夢を見ています。

 

浅い考えかもしれませんが、ひとまずそんな夢を追って生きていこうと思っています。

 

就活でお祈りされて自己分析が完了した話

就活中の修士1年生。初めてお祈りされました。

しかも一日に二つも。

噂には聞いていたけど、不採用の時って本当に健闘をお祈りされるんですね。

なかなかメンタルに響く出来事だったが、今回は、このお祈りのおかげで本当の「自己分析」が完了したっていう話をしたいと思う。

 

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結婚なんてできるのだろうか

現状、全く家族と分かり合えていない。

高校時代から薄々感じていたことだったが、家族と馬が合わないのである。

そりゃ小さい頃は母親と父親がすべてだったし、妹ともよく遊んでいたのだが、大学院生の今やそんなことはないわけで、大学の人とか読んでいる本とかの影響の方が強いのである。

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「美人女優がIT社長、野球選手..etcと交際」といったニュースを見て

「所詮はカネか」

とか、あるいは

「所詮は顔か」

みたいな発言をするとき、その人は交際相手をカネや顔などの表面的な基準で選ぶことに批判的なスタンスをとっているように見えるが、そのお相手と接したこともない人間にその性格や人間性を計ることなどできるはずもないわけだから、表面的なプロフィールで人を判断しているのは女優ではなくおまえだということになってしまう。自分の持ち出した理屈で大きな墓穴を掘っているわけである。

 

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スマホに疲れた現代人よ。読書をしよう。

SNSやらネットニュースやら、コンパクトで刺激的な情報の海は氾濫し、現代人は溺死寸前である。こんな時こそ心を落ち着かせて本を読んでみるのはいかがだろうか。

 

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